2014/08/04

胃ろうという選択。

胃ろうという選択、しない選択~「平穏死」から考える胃ろうの功と罪
 (長尾和宏著/セブン&アイイ出版)


「そろそろ胃ろうをつくりませんか?」
医者からサジェスチョンを受けた時にぜひお勧めしたい良書。

胃ろうを作るか作らないか。

医師へのアンケートで「あなた自身は胃ろうを選択しますか?」という問いに、
「やりたくない」という回答が93~95%だったそうだ。

対して、「家族に胃ろうをするか」という問いに対しは3割ほどがYESになるという。

自分はイヤだけど、家族にはしてほしい。
病気の家族に対して、「やるだけのことはやった。」という満足感をえるために、
本人の意思を無視して延命治療をするのは「エゴ」ではないか。と長尾先生は問う。

では、胃ろうは悪なのか?何が何でもつくらない方が良いもの?

答えはNO。長尾先生によると、
老衰や認知症末期の患者への胃ろうをめぐる選択肢は3つあるようです。

1 胃ろうをしない選択(自然死、平穏死、尊厳死)
2 「ハッピーな胃ろう」だけの選択(いずれは中止で平穏死可能)
3 「アンハッピーな胃ろう」になっても最後まで選択

1は、本人の意思とともに、病状が終末期の場合、
過度な栄養注入は苦痛を伴い、延命効果も得られないということから胃ろうをしない。

2は、救急治療あるいは、経口摂取が可能になるまでのつなぎとしての胃ろう。
あるいは経口と胃ろうの併用で、健康な生活を続けるための胃ろう。
同時に嚥下リハビリなどを行ってなるべく口から食べられるようにすることが前提。
「ハッピーな胃ろう」なのにもかかわらず、家族の間違った思い込みで、
胃ろうをせずに亡くなってしまうケースもあるという。
ALSなどの難病患者の場合の福祉用具としての胃ろう造設もこれに含まれる。

3は、患者にとっては苦痛以外のなにものでもないのだが、
胃ろうを中止することが殺人であると信じる家族と医師によって、続けられてしまう胃ろう。

「延命措置」としての胃ろうと、
「救急措置」「福祉用具」としての胃ろうは異なる視点で語られなければならない。

「尊厳死」と「安楽死」の問題、延命措置の「不開始」と「中止」の問題もそうだけれど、
本来は分けて語られるべきものが、ごっちゃにされて議論にならないのは残念なことだ。

また、国民皆保険の日本では「延命する権利」は担保されているが、
「延命しない権利」は法的に担保されていない。
患者本人の意思は、リビングウィルの表明があったとしても、
意識が無くなった場合無視されてしまうのが日本の現状。
お金がかからないなら、延命するのは当然でしょうという空気。
少なくとも患者本人が望んでいたことがはっきりしている場合、
「延命しない権利」を法的に担保することは重要だという長尾先生の意見に私は賛同できる。

本当はもっと踏み込んで、家族の協力を得ないと続けられない介護について、
家族の都合で延命が続けられなくなり、
「しんどいのでもう介護やめたい。」と思うことが、
本当に許されないことなのか、ちゃんと議論するべきだと思う。
認知症患者が線路に入ったら、補償を要求される世の中なのだもの。

呼吸器をつけたくても、外すことができないことでつけられない。
我慢しながら長く生きることと、短い間でも満足して死ぬことに
優劣があるのかについて、私はとても疑問に思っている。

「生き続けていれば素晴らしいことがきっとある。」というのは、
サッカーを続けていれば、転職しなければ、離婚しなければ…というのと一緒で、
続けるか続けないか、どちらを選んだ場合でも、
素晴らしいことも悲惨なことも起きえる。本人と家族以外は責任はとれない。
選べない人、迷っている人を説得するのは当然だけれど、
もう迷っていない患者に価値を押し付けることには少し違和感がある。
プロコンをきちんと説明して、自分で選ぶことを助けるまでが、
本来の医療関係者の仕事ではないのだろうか。

「尊厳死はタチの悪い宗教」という発言を見たことがあるけれど、
そういう発言はやめた方が良いと思う。
あと、「嫌なものはイヤ。」という意見も最強で最悪。
だってそれ言われたら建設的な議論にならないもの。


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